祖母と祖父

 私が生まれた時、母の兄弟であるニ人の叔父たちは、戦争という大きい波に飲み込まれ死んでしまったので全く知りません。 祖父にとって大切な跡取りの男の子がいなくなったのです。
そして 次女である私の母が見合い結婚。 私が長男として生まれました。 祖父は内孫で男の子が生まれ「これで店の跡取りができた!」と大喜びしたそうです。 三人の叔母たちは、この時よりずーっと十数年に渡り、私の顔を見るたびに、効果が有るのか無いのか分からない魔法のような呪文を私にかけるのです。 「敏男が店を継ぐんだからね」と。
長男が家業を継ぐのが当たり前で、「長男でないと駄目」という考えの時代だったのです。

   

小学校
 六年生の二学期が始まってすぐに「小児性リウマチ熱」と言う、とても重い病気になってしまい、 二学期の前半を休む事になったのです。 授業内容が全く解らず「落第するのかな?」と不安でした。 そんな私を担任の先生は、「市川は豆腐屋を継げばいいんだから心配するな!」と元気付けてくれたのです。
これはまさしく、叔母達と同じ魔法の呪文ではありませんか。
中学校
 高校進学への進路相談での担任の先生のアドバイスは、「市川は店を継ぐんだから、商業高校がいいだろう」です。
何の違和感も無く都立第三商業高等学校に決めたのです。
商業高校
 深川にある下町の商業高校で、「進学クラス」「就職クラス」「自営業クラス」とクラス分けしてしまう古き良き時代の残った校風でした。 ニ学年の時、母が昔から悪かった心臓病の手術をする事になり、店の人手が足りなくなってしまうので、私が学校へ行く前の朝一時間、製造を手伝う事になりました。 自営業クラスの卒業する条件として、家業についての卒業論文を書かなくてはいけないのです。 校長先生がすべて目を通した後で、記念に製本してくれるのが代々続くしきたりでした。卒業近くなった時、「敏男が店を継いでくれないと、店を閉めるしかない」と家族から言われました。
自分自身「やるしかないのかな」と感じてはいました。
   
23歳
 父が脳内出血で左半身マヒ状態になってしまい、一年ほど治療とリハビリの為仕事をリタイヤしてしまいました。「自分が全てやるしかならなくなった事」が、仕事への意識が大きく変わった時だったのです。 技術的には近くで見て、そして、教えてもらい、製造できるようにはなっていったのですが、全体の総合的な流れ等への意識はまだまだ足りません でした。 精神的には不安でした。
29歳
 父が亡くなりました。 全くの突然にです。 いつものように昼寝をしたまま・・・。
直接教えてくれる人がいなくなりましたが、同業の諸先輩に色々と聞いたり、直接仕事を見せてもらったり、指導してもらいました。
32歳
 家の老朽化に伴ない店を建て直しました。
製造機械の交換の必要性等によって、品質の向上、店舗のイメージアップといった手段で、地域社会へアピールすることを意識的に実行しました。
現在
 店舗販売と学校給食、料理屋、ホテル(季節ごとの食器の大きさに合わせた大きさ・厚さ・固さの注文)等の食材としての注文に応じた製法も行っ ています。
 
これからもがんばります
 奈良時代に仏教の伝来とともに日本へ渡って来た歴史ある食べ物を守り・伝承する立場にあると思っています。 当時伝えられた製造工程を、近代化と言う方向の完全自動化にするのではなく、一つ一つの工程を大切に、自分で確かめられる当時のままの製造方法で造っていきたいと思います。
 奈良時代の豆腐と、今日造った豆腐との味を比較する事はできません。 しかし、時代・時代に合った味、また、固さを表現したいと思っています。
より質の高い大豆が国内で作られています。 高い質の大豆を使用する事は、気温の変化、四季の移り変わりと共に、大豆と密着した生活のリズムが前提となります。 より一層美味しい豆腐を皆様に召し上がって頂く為に大豆そして製造方法を大切にしていきたいと思います。

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