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私の生年月日は、昭和47年5月20日でちょうど浅草三社祭の真っ最中でした。なんといっても浅草が最も盛り上がるのは三社祭です。その記念すべき日に生まれたこともあり、もの心ついた歳になってからは御神輿があるだけで、小さいながらも興奮をしていたことを今でも覚えております。つまり、小さい頃から浅草の文化や伝統に自然に触れて、浅草という町すべてが、身体に染みついているのです。
そんな私は幼年時代すでに、「大人になって、死ぬまで浅草で住み続けよう」とあたりまえの様に考えていました。もちろん、幼稚園は地元の幼稚園、そしてあたりまえのように地元の小学校中学校と進学しました。
私は、小学校時代に教科書を開いて授業を熱心に聞いたという記憶はほとんどありません。勉学というよりは、町の少年野球に何よりも熱中していました。
親の教育方針も勉強をしなさいというよりは、体を鍛えなさいということだったので、学校の成績についてうるさくいわれませんでした。しかし、少年野球をやっている以上は、厳しく指導されました。練習が終わり家に帰ってから父が家で待っていて腕立て伏せ、腹筋運動、素振りと毎日強制的に、厳しく特訓を受けました。
チームの練習も、1年の中で正月以外はほとんど休みがありませんでした。
そのお陰で少年野球をやっていた時代には、多くの思い出があります。5年生の時には東京都の新人戦で、その当時で約1000チーム中ベスト16位になったこともありました。私のポジションはピッチャーなので、特に充実感があったのを覚えています。
小学校6年生になってからは、エースになることが確実でした。しかし、6年生になって急に、ストライクがまったく入らないスランプに陥りました。
もちろん、父とも公園で毎日のように投球練習をしましたがまったく成果が得られませんでした。
子供ながらに、寝付けないほど悩み苦しみました。当然、エースとしてはずされレギュラーにもなれないまま6年生が終わり、悔いの残る最後となりました。
29才になった今でも、投球ホームのどこが悪かったのか考えるときがある程です。しかし、その当時子供ながらに真剣に考えたことや悩み悔しく思ったことができた体験は本当によかったとおもいますし、スポーツの奥深さを知りました。

そして、高校ではラグビー部に所属しました。やればやるほどおもしろいスポーツに出会った私は、ラグビー部に入部するために日本体育大学に進学しました。
明治大学や早稲田大学のラグビー部と比べると少し引けをとっていましたが、これまでの大学ラグビー界での実績は他の強豪な大学とも互角で戦えるだけのものをもっていました。
私が大学のラグビー部に入部して驚いたのは、先輩達の体の大きさと身体能力の高さでした。また、なんといっても部員数が新入部員を入れれば約200名いたことです。
もちろん私の同期となる進入部員たちのほとんどが、高校時代に花園ラグビー場で行われます全国大会に出場はあたりまえで、高校の日本代表に選ばれた新入部員も数名いました。
正直、私の心の中は、場違いの所にきてしまったと後悔してしまいました。
しかし、練習や寮生活と同期の友達と常に生活をともにしていたので苦しい中でも、みんなが同じように大学生活を送り、私だけが辛いというわけではありませんので弱気になるようなことはありませんでした。
また、1年生よりは2年生、2年生よりは3年生と年々歳を重ねる度にラグビーの技術向上もしましたし、1年生の時70kgの体重が4年生の時には88kgになったおかげで自信も高まってきました。
約200名の部員数ですので、当然8チームぐらいは部の中で編成できますので、レギュラーになるためには部内競争に勝ち抜かなければなりません。
私もあっという間に、最高学年の4年生になってしまいました。チャンスは残り1年間しかありません。しかし、後輩を含めて、同じポジションの競争相手だけでも12名もいましたので、レギュラーになるのはそう簡単なものではありませんでした。結局、シーズンにはいるまでにレギュラーにはなれませんでした。
結果はレギュラーになる一歩手前の位置です。
しかし、チームというのは、試合には出場しない部員も含めて全員がチームの士気を高めなければチームの勝利はありません。私も試合には出場出来ませんでしたが、後輩を指導する立場で、大学最後のシーズンが終了するまで一生懸命に練習に励みました。
結果的にはレギュラーになれず、悔しい気持ちともどかしさはありますが、社会人として仕事でがんばろうとまた新たなスタートに向かって頑張ろうという礎になりました。
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