私は今では東京で数件程しかない押絵羽子板職人の家に生まれました(生まれた時から羽子板の中)。
私の父は現在78歳で(この道63年)業界でも最長老の大ベテランな人です。
私は父が41歳の時の子で(長男)この子が成人(20歳)まで生きていられるかとても心配していたそうで、何とか20歳まで一人前の人間に育てたかったようです(今ではずい分おつりが来ました。)

 職人の家の子は、多かれ少なかれ家の手伝いをするものです。母も子供たちも、 家業としてその職にたずさわっていかなければなりません。 小学校に入学したとたん、その仕事が回ってきました。 朝、店の開店、店内の掃除など今でもその時のことが思い出されます。 小学校、中・高学年になると人形問屋さんなどへ父の作った羽子板を届け、代金をもらって帰って来る。遠い所は千葉県まで一人で行きました。当時、数十万円を風呂敷に包み、腹に巻き帰って来る、初めはけっこう緊張して、電話ボックスがあるたびに家に連絡して現在地の報告。
でも今思うと、とても楽しかったような気がします。

羽子板を作っているところ
 

 

 そんな大人たちの社会に小学校の頃より入っていた事が今の自分にとって大変役に立っていると思います。
ただ、仕事が優先で、他の家の子のように遊べなかったけれど、悪い事ばかりではありません、羽子板を届けに行ったお店のおかみさんから、おこずかいをもらったり帰ってきて、親からおだちんをもらう。
だからその頃けっこうお金、持ってたなあ〜。

 中学に入るとすぐ、夏休みの間千葉の人形問屋へアルバイト(校長先生の許可をもらい)。
朝9時出社夕方5時まで大人の社員と同じ仕事内容、本当は店の営業に自信があったので係長さんに店に出してほしいとたのんだら『中学生は店には出せない』と断られました。(当然だよね!!)
そこで私の仕事はトラックに乗っての配達、それが終わると工場でお葬式に使う造花の花輪づくり、そのへんの高校生のアルバイトより良くガンバッテいたそうです。(社長が言っていました)

これが押絵羽子板です

一年に一度の羽子板市

 そんな中で中学1年の夏に考えた事は、大人になって、どこかの会社に就職したら、こんな事を毎日やるんだろうなあ〜。もし一生仕事をやるなら一生悔いの残らない仕事を見つけなきゃと思った夏でした。

 我が家の一大イベントが年末にあります。それは今でも行われている浅草の羽子板市です、父が1年中で作った羽子板を売る市です、そこでも家族総出で小学校の頃より店先へ出て大人相手に父の作った羽子板を売る、商品をねぎったお客からは必ずご祝儀をもらう、そんなやりとりが子供の頃から好きでした。 中学時代には、これは売れると思う羽子板を父から仕入れ、何割か利益をのせて売りました。その頃、商売っておもしろいなあ〜と実感しました。
大人になったら商いの道も考えていた頃でした。

 

 人並みに高校に入り、そんな家業の中の自分でしたが、いざ3年生になり進学か就職かの時期となり、あまり勉強が好きではなかった私は進学しないで働くことにしたのですが、教室の後ろの黒板に掲示してある求人広告もあまりたいした職もなし、・・・・さあーどうしよう!!

 そんな時、 頭に浮かんだのが父の仕事姿、朝から晩まで机に向かい、地味ではあるが一生懸命羽子板を作っている姿でした。良く考えてみるとそんな父の姿しか見ていない気もします。

仕事場の様子
 今の子供たちは父親の仕事している姿って見たことあるのかなあ〜。
その姿は真剣そのもので威厳もあってかっこいい。 子供の頃より商売が好きだった私は、自分の手で作った物をお客さんに買ってもらう、こんな仕事があるなら一生やっていけるのではないかと思いました。
それは羽子板でなくてもよかったかもしれません。 たまたま羽子板屋に生まれ育ち、羽子板が身近なものだったのが運のつき。
 時を同じくして、その頃、職人の仕事に大きな転機がおとずれました。
それは、今まで家の中で「こつこつ」作る職人たちの間で、世の中で手仕事を見直そうという気運が高まり、全国のデパートなどで実演・販売を精力的にこなすようになり、海外でも日本の文化、伝統工芸を紹介する中で羽子板もデモンストレーションにでかけるなど職人の世界もかなり広く社会へ出るようになったわけです。
私の考えていた仕事、自分の手で作り上げたものをお客さんに、じかに会って見てもらい、買っていただける、そんな時代が来たのです。
「卒業したら、いっちょ やったるかい・」と思っていた時期です。


押絵羽子板・メニュー
歩んできた道