タイトル

両親と

 私は昭和36年(1961年)に東京都に生まれました。
そのころの日本は、大きな戦争でぼろぼろになった国を一生懸命に、なんとか住みやすい、みんなが平等に暮らせるような国にしようと努力して、やっとそれが形になり、勢いがついてきた頃です。3歳の時、東京オリンピックが開催されました。(競技場まで数キロある我が家からも、開会式の花火が見えたのを覚えています。東京にすら、背高のっぽのビルが少なかったのですね。)今ほどではありませんが、欲しいものがあれば大概のものは買えるようになり、飛行機や新幹線などの発達で、それまではなかなか行けないような遠いところへも短い時間に行けるようになりました。TVが家庭に普及し始めたのもこの頃でした。

赤ちゃん  私の父も絵描きでした。子供の頃から、絵を描いている背中を見るのが好きで、横にくっついては眺めていたものです。家の中のいたるところに紙や鉛筆があり(トイレにもあったんだ、ホントだよ)常に「描ける」環境でした。これって大きなヒントになるね。「なによりの訓練は落書きだよ」と、父の持論。ですから、落書きは一切止められませんでした。が、畳いっぱいに飛行機を描いたときには、母は黙っていませんでしたが・・・絵の具などの画材もお下がりをもらって、友達の持っていないたくさんの色を持っていたのを覚えています。ここまでだと「なぁんだ、親が絵描きじゃなきゃぁ、やっぱり無理かぁ」と思われるでしょうが、世の中の絵を描く人が皆、絵描きの親を持っていたわけではありません。要は「環境作り」です。いつでも「描ける」準備をしておくこと。だって、描きたいと思ったときに描くのが、いちばん身に付きますからね。私だって、特別な手ほどきは受けませんでした。
 父の絵描きへの道のりは、かなり険しいものだったと聞いています。何が辛いって、親に職業としてまったく認めてもらっていなかったのです。なんとか、そんな親をだまして?東京に出て、始めての下宿先が額縁やさんの二階。ここで最初の環境を得たのです。そうやって、絵描きになっていった父は、私に描くことを強制はしませんでした。自分の苦労を持ち出すのではなく、楽しくなければ絵は描けない。そうじゃなければ苦しい修行にも耐えられない。お仕着せではなく、楽しさのお裾分けをしてくれましたわけです。

 小学校の時はガキ大将。中学に入ってからはスポーツ三昧の三年間でした。高校に入った頃に、写真に興味を持ち、毎日友達を撮っては、納戸に作った暗室にこもりっきり。大学は写真の学校にチャレンジしましたが、入れてもらえませんでした。

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